ものしろいや

キチムの展示がはじまりました。
隆司の絵があるから、骨がちゃんとあるから、どんだけはみだしても大丈夫、かなと毎日しろいものを探しています。
きちむにいくほど、時間が経つほど、しろいものやの中みも変わっていく。
それは、ものへのみかたの変化そのものです。
もともと、しろいものや、は、何年もまえに名前だけ思いついた架空のお店でした。そこにはしろいものとそのカゲだけが並んでいる。お店の中は無人のイメージでした。名前をつけたら、かたちになるんだね。
いま、つくっているのは、その空想に近づいていく過程です。
にこにこと見守ってくれているキチムはなんてよい場所なんだろう、そこにともだちが手伝いにきてくれる、しろいものももってきてくれる。わたしはあつめたものを、そこにいてずっと並べかえをしているのがしごとです。できるだけいっぱいみています。でも、みるって、なんだろう。
搬入の日、キチムをでてすぐのところでゴミにすてられたしろい椅子を拾った、それも置いてあります、とてもかわいい。さいきんは家の解体とかもみるし、でもいちばん拾うのは、お家のなか、ひとの家のなかです。タカシの家からも大家さんののこしものがたくさん、そのためずっとものの間で息をしていたぐらいだから、ものにこまりません。そう、タカシの家は、墓地のよこにあるので、カフェ墓地といって、随分あそばせていただいていますが、そこの大家さんは40歳になってから思い立って絵を描き始め、その家で50年間描いていたのです。その方の絵画や絵の道具、資料の本に囲まれ生活をするなかで、タカシが絵を描くようになったのは不思議な自然かなと。
うちからもっていくものも選んで、そのときに持っていかれないものが、自分も連れてけ、というので、やっぱり持っていって飾ってみると、なんだかはりきってるようにみえる。いままで、押し入れにあったもの、みえなかったものが、何かの拍子で表に出てくる、それは偶然じゃない。ものはいのちだと思う。

そうだ、どれもうっているようにみえない、といわれるのですが、うっているようにみえたくないけど、うっているものもあるので、きいてもらえるといいな。タカシの絵はうっていないけど、しろいものやのものに描いたりもしていてそれは買えるので、ずいぶんとくだなと思います。